(出典:Al Jazeera)
こんばんは、編集長です。Al Jazeeraのドキュメンタリー「サハラ砂漠の孤児(Orphans of the Sahara)」を見て辿っています(第1回目、第2回目、第3回目)。
このドキュメンタリーを見ていると「国家って簡単にできるのだな」と素直に驚かされます。
そして国の屋台骨となるのは、やはり軍事なのか、という事実も否定できなくなって来ます。
連載第4回目になりましたが、今回は、そんな国家と軍事との関係に焦点を合わせつつ、アザワドの春をチラッと見てみたいと思います。
(以下、画像出典は、Al Jazeeraの「サハラ砂漠の孤児(Orphans of the Sahara)」です。)
・弱いマリに人民はついてこなかった。
アマドゥ・サノゴ大尉。
軍部による国家制圧(クーデタ)
を宣言。
前回、トゥアレグ族の人たちの貧困を見た私たちにはまだ幾ばくかの同情がありますが、本国マリから見れば、彼らアザワド(トゥアレグ人の主張する独立国家)は、ならず者以外の何ものでもありませんでした。
アザワドは、一方でライバルのアルカイダとの戦闘を続けるとともに、他方でアンサール・アッ=ディーン(マリ共和国内にイスラム法に基づいた国家を建国することを求めるイスラム組織)との連携を深めて行きました。
こうして、
① 本国マリ
② アザワド&アンサールアッディーン
③ アルカイダ
という三つ巴のマリ内戦が泥沼化して行きます。2012年初頭の話です。
アザワドもアルカイダも駆逐できない”文民”大統領に業を煮やしたマリ軍部が動きます。
若きアマドゥ・サノゴ大尉を中心とし、2012年3月21日、遂に、マリ軍部がクーデタを起こしました(上掲画像)。
当時の大統領アマドゥ・トゥマニ・トゥーレは逃亡。
アメリカを初め、ほぼすべての外国がこのクーデタを非難しましたが、マリ国内では熱狂的な支持を集めました。
2017年11月15日にジンバブエで起こったクーデターが重なりますね。
・でも、アザワドは絶頂期にあった。
アザワドの「侵攻」を喜ぶ
トゥアレグ族の女性。
マリで軍事クーデタが起こった2012年3月ごろ、しかし、アザワドは絶頂期にありました。
彼らの支配地域は、首都ガオを中心に、フランスの面積を超えるところまであったと言われています。
まさしくトゥアレグ族に春が到来した瞬間でした。
たまたま占領地に空港があったので、
そこで軍隊っぽく喜ぶひとびと。
ガダフィー大佐の傭兵だったとは言え、結束力の怪しまれるアザワドの面々、
次回は、そんな彼らが、どのように「国家」を組み立て、必要な軍事力を確保していったのか、そしてどのように崩れて行ったのかを、見てみたいと思います。
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それでは、今回はここまでです。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。m(_ _)m
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